「愛」について語ってみようと思う

今回のテーマは「愛」である。

このテーマを選んだということは、つまり「書くことがない」ということでもある。

「愛」の懐は深い。

愛について何かを語れば、それはまるで地球全体を包括したスゴイことを語っているようであり、同時に何も語っていないことにもなる。

そこに愛が有るといえば有ることになるし、無いと言えば無い事にもなる。

頭がハッピーな女子が自分の彼氏に対して「私のことどれくらい愛してる?」と訪ね、彼氏が「これくらいだよ」と両手を広げればなんとなるくらいに「愛」の用途の幅は絶大だ。

両手を広げるのが面倒な場合は「両手じゃ表せれないくらい好き」と言えばいいので、やはり愛の懐は深いと言わざるを得ない。

台所にある「味の素」くらい何にで使えるし、無ければ無いで問題も起きない。

「愛」と「恋」の違いについて議論している連中がいたら注意した方がいい。

中学校の英語教師が「ス」の発音を「th」と口をすぼめてしつこく教えてくる時くらい注意した方がいい。

「R」の「ル」を言う時の舌の巻き方を教えてくる時も注意した方がいいし、気持ちが悪いのであまり顔を近づけないでほしい。

その違いを知ってもあまり役には立たない。

「マンハッタン」の発音は本場アメリカでは「マンハッッンーー」だと、スピディーなランニング野郎が教えてくれるけど、あっちの方がまだ役に立つ。

ちなみに「マクドナルド」は本場では「マクドォーナッッ」らしいし、東京では「マック」と略して言うけど、大阪では「マクド」と言うらしい。

このように「愛」について語り出すと、つい話しが脱線してしまう。

しかしこれだって、英語の発音やマクドナルドに対して私なりの「愛」があるがゆえの脱線だとも言えなくもない。

「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」と母テレサも言っていた。

もし私が中学英語の発音に対して愛がなく、全くの無関心であったらならこんなにしつこくは書かないと思う。

つまり私は中学の英語に対して憎しみがあるのだ。

すなわち、そこには愛もある。

30歳を超えてもまだ中学の英語教育に対して愛があるということは、もうどこにもで「愛」がある言っていも過言ではない。

それくらい世の中は愛に溢れている。